FXのやり方と為替予想見通しをわかりやすく分析しています!

ロシアとウクライナの歴史から紐解くプーチンのウクライナ侵略戦争の背景は!?

ロシアのプーチンがウクライナに侵略戦争をしかけて

早3日経ち、はじめての週末を迎えています。

ロシアは当初数日間でウクライナの首都キエフの陥落

をねらっていたようですが、ここにきてプーチンの

計算違いも生じてきているようです。

今回は、ロシアとウクライナの歴史を中心に

プーチンの思想の裏側にあるものを読み解いてみたい

と思います。

ロシアの歴史は

「ロシア」という国名は、現在のロシア北西部、ウクライナ、ベラルーシに

またがる地域に存在いていた「ルーシ」という国に由来しています。

日本では首都がキエフだったことから、「キエフ・ルーシ」または

「キエフ大公国」と呼ぶのが一般的です。

ルーシが建国されたのは、862年頃。リューリクという人物が一帯を支配し、

首長となりました。国名はルーシ・カガン国、首都はホルムガルド。彼の子孫が

9世紀から16世紀まで支配者として君臨し、「リューリク朝」と呼ばれています。

リューリクが879年に亡くなると、ルーシ・カガン国は子のイーゴリに受け継がれました。

まだイーゴリが幼かったため、実権を握ったのは親族のオレグ。882年、ルーシ・カガン国が

南へと勢力を拡大し、首都をキエフに移転してキエフ・ルーシなることを

主導したのもオレグです。

キエフ・ルーシは周辺の東スラブ系民族を支配下に組み入れて勢力を拡大。

東ローマ帝国とたびたび戦火を交え、941年には首都コンスタンティノープルを攻撃しました。

戦いはいずれも東ローマ帝国の勝利に終わるものの、人の行き来にともなって

キリスト教が伝播します。もともとスラブ神話に登場する神々を信仰していましたが、

キリスト教化していきました。やがて東方正教会の影響下に入り、

キエフには府主教が設置されます。この教会が後のロシア正教や

ウクライナ正教の源流です。

その後キエフ・ルーシは、リューリクの血を引く親族間での争いなどで徐々に衰退し

1240年にモンゴル帝国の侵攻を受け、滅亡します。

この地域はキプチャク・ハン国の支配下になりました。キプチャク・ハン国への

貢納をまとめる役として台頭したのが、モスクワ公です。15世紀には独立し、

モスクワ大公国となりました。

1462年に大公に即位した大帝イヴァン3世は、ルーシ北東部をモンゴルの支配

から解放して勢力を拡大。自らを「ツァーリ(皇帝)」と名乗り、モスクワ大公国は

ロシア・ツァーリ国となりました。

ロシア・ツァーリ国はイヴァン4世の時代に近代化とシベリア進出などでさらに拡大し、

北方の大国となります。

皇帝への権力集中を進め、ロシア・ツァーリ国を大国にしていったイヴァン4世ですが

貴族のなかには彼の専制政治を嫌う者も多く、1584年に彼が亡くなると、

国内は大貴族が皇帝の命に従わずに互いに争うようになっていきます。

この動乱のなか、1598年にはツァーリでイヴァン4世の息子である

フョードル1世が亡くなり、リューリク朝が途絶えることになります。

1605年、「ボヤーレ」と呼ばれる貴族たちが、モスクワ大公国と

ポーランド・リトアニア共和国の連邦構想を打ち立て、ポーランド・リトアニア共和国の

貴族たちが私兵や傭兵を率いて内戦に介入するようになりました。

1610年にはモスクワにポーランド・リトアニア共和国軍が入城する事態になり

さらにスウェーデンも介入します。

1612年11月4日、義勇軍がモスクワの解放に成功し、

ローマ・カトリックにロシア正教会が勝利した日として、現在も国民の祝日となっています。

1613年、新たなツァーリとして、ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが選出し

リューリク家との直接の血縁関係はありませんでしたが、イヴァン4世の妃がロマノフ家出身

だったことから、縁戚に数えられていました。これによって、ロシア最後の王朝である

ロマノフ朝が成立します。

ロマノフ朝は、ミハイルと子のアレクセイの時代に国の基盤作りを進め、孫のピョートル大帝の

時代に首都をサンクトペテルブルクに移動。西洋化と近代化を進めて、

列強に名を連ねるまでになりました。

1721年には国号をロシア帝国と改めます。ロシアを辺境の国家から列強へと

脱皮させたピョートル大帝の功績は「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、

そしてここから流れ出す」と評価されるほどです。

しかしロマノフ家は後継者不足に悩まされ、ピョートル大帝の死後、

1730年には男系の嫡流が断絶。傍系で継承されることになります。

1762年には、ロマノフ家の血統ではない皇后エカチェリーナ2世が

皇帝として即位するなど、徐々にドイツ系の血を濃くしていきました。

エカチェリーナ2世の孫であるアレクサンドル1世の時代には、

フランスのナポレオン・ボナパルトによる侵攻を撃退。ウィーン会議にて

「神聖同盟」の締結を提唱するなど、東欧最大の強国としての

地位を揺るぎないものにしていきます。

そして1830年代以降、ロシア帝国は「不凍港」の獲得を目的に

「南下政策」を推進していきます。中央アジア、アフガニスタン、

イランをめぐりイギリスと争いました。

1853年の「クリミア戦争」にてイギリス・フランス連合軍に敗れ、西欧の先進国との

差があることを痛感すると、皇帝アレクサンドル2世は1861年に

「農奴解放令」を発布。近代的改革に取り組んでいきます。

自治権の不十分さに不満を募らせたポーランドやリトアニア、ベラルーシ、ウクライナなどで

反乱が相次ぎ、鎮圧にも多くの労力がかかりました。

ただ領土拡大は続けていて、中央アジアではブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカハンド国を相

次いで勢力下にし、東アジアでは沿海州を獲得。念願の不凍港であるウラジオストクを手に入れます。

1875年には日本との間に「樺太・千島交換条約」を結び、樺太を手に入れました。

1894年に即位したニコライ2世は満州や朝鮮への進出を図りますが、

「日露戦争」に敗れたため、アジア方面への南下政策を断念します。

その後ロシア帝国は「汎スラヴ主義」を掲げてバルカン半島への進出を目指し、

「汎ゲルマン主義」を掲げるドイツやオーストリアと対立し、

「第一次世界大戦」が起こることになりました。

大戦中の1917年2月23日、サンクトペテルブルクにて、食料配給の改善を求める

デモが起こります。デモは瞬く間に拡大し、軍の一部が反乱を起こすなど革命へと発展し

「ロシア革命」がおこりました。

3月17日にはニコライ2世が退位を余儀なくされ、約300年続いたロマノフ朝が滅亡し

アレクサンドル・ケレンスキーを首班とする臨時政府が設立され、ロシア帝国は

「ロシア共和国」になります。

10月にはレーニンやトロツキーを指導者とする「ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)」が

「10月革命」を起こします。約5年間の内戦のすえ、1922年にボリシェヴィキから改称した

ソ連共産党の一党独裁にもとづく、世界初の社会主義国家「ソビエト連邦」が建国されました。

約200年ぶりに首都がモスクワに戻り、サンクトペテルブルクはレニングラードと改称されます。

1930年代は多くの資本主義国が世界大恐慌に苦しみましたが、ソビエト連邦は

レーニンの跡を継いだヨシフ・スターリンによる農業の集団化と重工業化の断行によって、

高い経済成長を達成。社会主義は資本主義に勝る理想的な国家の姿だと評価されました。

しかしその実態は農村からの強制的な収奪にすぎず、各地で大飢饉が勃発し

スターリンは不満を述べる人々を粛清し、強制収容所、シベリアへの追放処分などの

恐怖政治で抑えつけました。当時の死者は数百万人にのぼるといわれています。

1939年、ナチス・ドイツとの間に「独ソ不可侵条約」を締結し、ともに

ポーランドに侵攻します。「第二次世界大戦」の引き金を引きます。その後ドイツが

「独ソ不可侵条約」を破棄してソ連に攻め込むと、連合国からの援助を受けながら

これを撃退し、戦後はアメリカと並ぶ超大国として世界に君臨することになりました。

これが、ロシアの近代にいたるまでの歴史です。

ロシアでは、1721年のロシア帝国設立をロシアの起源して考える

人が多いようです。しかし1917年にロシア革命が勃発しロマノフ朝が滅び

そこから「10月革命」へとそして1922年のソビエト連邦を建国し

独ソ不可侵条約を基にポーランドに侵入し第2次世界大戦勃発の契機

となります。

ウクライナの歴史は

ウクライナの歴史をさかのぼると

紀元前3世紀にはサルマティア人、3世紀には東ゴート族、4世紀から

5世紀にフン族、6世紀にアヴァール族が支配者となり、

8世紀にはハザール・ハン国が支配します。

同じ頃、ルーシという国が誕生し、キエフを首都としました。キエフは

882年にバイキングの手に落ち、キエフ大公国を統治したリューリク朝の

都になります。キエフ大公国は周辺民族を征服し、11世紀には

約150万平方キロメートルの国土を誇る、ヨーロッパ最大の国へと成長しました。

しかし13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受け、滅亡します。

ちなみにキエフ大公国がキリスト教を国教と定めたため、

現在のウクライナにもキリスト教文化が根付いているそうです。

1340年に王統が途絶えると、隣国のポーランドとリトアニアが相続権を主張。

戦いの結果、北部・中部はリトアニア、西部はポーランドと分割支配されることに

なりました。国境地帯はどこの国にも所属せず、「荒野」と呼ばれます。

またクリミア半島は、クリミア・ハン国と後にロシアとなる

モスクワ大公国に支配されました。

15世紀後半、権力の空白地域となっていた「荒野」で、武装した人々が共同体を

作ります。彼らは「コサック」と呼ばれ、ポーランドとリトアニアの臣下でありながら

国王の支配を受けず、軍人の特権と自治制を有する特殊な集団でした。

ポーランドやリトアニアの傭兵としてさまざまな戦争に参加し、また自らも隣国の

モルドバ、クリミア、ロシア、オスマン帝国を攻撃するなどして、

勢力を拡大していきます。1648年には、首領のボフダン・フメリニツキーが

中心となって反乱を起こし、独立を果たしました。

しかしその後は内乱状態に陥り、その隙を見てロシアが介入してきます。

結果的に、ドニプロ川を境にポーランド・リトアニアの支配下に置かれる「右岸ウクライナ」と、

ロシアの支配下に置かれる「左岸ウクライナ」、そして下流の「ザポロージャ」

の3つに分裂することになりました。

その後、「ロシア・ポーランド戦争」を経て1689年に「永遠平和条約」が締結。

ロシアとポーランドでウクライナを分割すること、ザポロージャはロシアが

統治権を得ることなどが定められます。

ロシアの支配下でコサックの自治権は徐々に奪われ、ウクライナ語はロシア語の

「方言」として扱われるようになりました。1863年には、ウクライナ語の

書物の出版や流通が禁止されます。コサックはロシア軍に編入され、

「日ロ戦争」にも参加しました。

「第一次世界大戦」が勃発すると、ウクライナの西部は激戦地になります。

1917年にロシア帝国が崩壊すると、ウクライナは独立を目指して立ち上がりますが、

ウクライナ人民共和国軍、ソビエト赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援する

フランス軍、イギリス軍、ポーランド軍、無政府主義者の黒軍、ゲリラ主体の緑軍などが

入り乱れる内戦状態になりました。

1920年にソビエトの勝利で内戦が終息し、ウクライナ社会主義共和国が成立。

1922年には、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソビエト連邦を結成しました。

ソ連下のウクライナでは厳しい弾圧政策がおこなわれ、多くの政治家、知識人、

文化人などが逮捕されています。また農業の集団化などの失政によって2度の大飢饉にも

見舞われ、400万人から1000万人が亡くなったそうです。

ウクライナは「第二次世界大戦」時も独ソ戦の激戦地となり、800万人から

1400万人もの被害者を出しました。これは当時の人口のおよそ2割におよぶ人数です。

戦後は国際連合加盟国として総会に議席をもちますが、「ソ連の一部」

という扱いから脱することはできません。

また1986年には「チェルノブイリ原発事故」という悲劇にも見舞われました

「第二次世界大戦」が終結した後の世界秩序を保つため、1945年2月に「ヤルタ会談」

が開催されます。ここから1989年に開催される「マルタ会談」までの44年間、

アメリカとソ連は「冷戦」をくり広げました。

アメリカを主導者とする西側陣営は、ソ連の軍事力に対抗するために1949年に

「北大西洋条約機構」を結成します。

これに対抗してソ連を主導者とする東側陣営も、1955年に「ワルシャワ条約機構」

を結成。ソ連は東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国としました。

1949年には中国共産党が国民党との内戦に勝利して「中華人民共和国」を樹立。

1961年にはガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成功させるなど、

冷戦初期は東側陣営が優勢な状況が続いていました。

一方で、1948年には早くもチェコスロバキアが離脱。1956年には「ハンガリー動乱」が起き、

1960年代には中華人民共和国やアルバニア人民共和国の離反を招くなど、スターリン主義

にもとづくソ連の指導性に関しては揺らぎが見られました。

さらに1970年代に入ると、社会主義の基盤である計画経済が破綻。経済力において

西側陣営との差が大きくなっていきます。

ソ連にとって致命傷となったのが、1979年から1989年まで続いた

「アフガニスタン侵攻」です。抵抗するムジャヒディンとの戦いは長期化し、

国力が大いに疲弊しました。

1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、ソ連を立て直そうと

「ペレストロイカ(再構築)」と「グラスノスチ(情報公開)」を掲げて改革に

取り組むものの、各地の民族主義を刺激し、共産党内部の権力闘争を招き、

1991年12月25日にソ連は崩壊しました。

1985年にソ連の最高指導者に就任したミハイル・ゴルバチョフの政権下で

「ペレストロイカ」と呼ばれる改革がおこなわれるなか、ウクライナでは

「ペレブドーヴァ」と呼ばれる運動が起こります。

長年ソ連政府から弾圧されてきたウクライナ語の解放を訴え、1989年9月、

ウクライナ人文学者や作家を中心とする民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」

が結成されました。1990年3月には国会にあたる最高会議の議員選挙も実現し、

彼らを中心とする民主派勢力が多数の議席を獲得します。

最高会議は7月に「主権宣言」を採択。ウクライナのさまざまな権利をソ連から取り戻すことを

宣言し、8月24日に独立を宣言。12月に実施された国民投票で支持を受け、

悲願の独立が達成されたのです。

しかし独立した後も、ウクライナにはクリミア半島という大きな問題が残っていました。

クリミアは黒海の北岸に突き出した半島で、面積は約2万7000平方キロメートル。

1443年から1783年までモンゴル帝国から独立したクリミア・ハン国の支配下にあり、

1783年にロシア帝国に併合されました。

半島の先端にあるセヴァストポリには要塞が築かれてロシア海軍の拠点とされ、

1853年から1856年に起こった「クリミア戦争」では主戦場になりました。

1991年にソ連からウクライナが独立すると、クリミアは「クリミア自治共和国」

と「セヴァストポリ特別市」としてウクライナに帰属します。

しかし半島の住人の半数以上がロシア人だったことから、ロシアへの帰属を求める

声が高まるのです。ただこの動きを後ろ盾していたロシアが手を引いたために、

クリミアの独立運動は一時沈静化しました。

クリミア問題が再燃したのは、2014年のこと。2月18日に首都キエフで

「ウクライナ騒乱」といわれる運動が起こります。当時大統領だった親ロシア派の

ヴィクトル・ヤヌコーヴィチに対して、親EU派が抗議をし、ヤヌコーヴィチはクリミア半島に亡命します。

2月27日、クリミア半島で親ロシア派の武装勢力が蜂起。数日で議会、

空軍基地、空港などを占領しました。3月2日にはウクライナ海軍が投降し、

ロシアに本部を明け渡します。翌日からロシアは、「ロシア系住民の保護」を

理由に軍を投入。3月16日には「ロシア編入の是非を問う住民投票」が実施され、

96%を超える賛成多数で可決。翌3月17日にクリミアはウクライナから独立し、

ロシア編入を宣言しました。

ただウクライナは、ロシアへの編入は憲法違反だと主張。現在の状況を

「占領」だとし、他国も巻き込んで係争状態が続いています。

プーチンがウクライナに侵略した背景は

このように歴史を紐解いてみると、ウクライナはロシアから侵略された

歴史が大半をしめており、またウクライナの首都キエフが、「ルーシ」

とよばれるこの地域の発祥の王国となっています。

近代では、ウクライナはソビエト連合に組み込まれましたが

念願となる独立をやっと果たしのが、ソビエト連邦の崩壊

です。ロシアは歴史上のほとんどが戦争をくりかえしていた事実

もあります。実際に第2次世界大戦は、ロシアのポーランド侵攻が

きっかけとなっています。

プーチンはこのロシア帝国の思想と、またソビエト連邦時代

のワルシャワ条約機構の体制時代の復活を目指した思想

の持ち主のようです。

https://twitter.com/ReutersJapan/status/1497700503278403586

まとめ

ロシアは、46の州、9の地方、3の連邦市、22の共和国、1の自治州、4の自治管区という

計85の連邦構成主体で成り立つ連邦共和制国家で、国土面積は、

日本の約45倍、アメリカの約1.7倍あり、南米大陸全体に相当する大きさで、

世界最大です。そして182の民族が居住していて、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人

などの東スラブ系民族が約80%です。このように、ロシアは、ロシア帝国からソ連連邦に

至るまで覇権主義の歴史を象徴しているようです。

プーチンに関しては、ソ連連邦時代の勢力の拡大をねらった発想なのか

それとも、自信の人気を戻すためにおこなっている行為なのか、専門家の意見は

両方でていますが、ロシアに支配されたいた時代に戻りたくないとの、大半のウクライナ

の人々にさからってウクライナを侵略する行為は、この情報網が発達した

現代社会において、どのように展開するのか懸念されるところです。

SWIFT(スウィフト)の意味と欧州がロシアを排除できない理由とは!?

 

 

 

プロフィール


Yoshi

こんにちは、Yoshiと申します。
約20年に及ぶ外資系銀行でのトレード経験を活かして金融情報を独自の視点で発信しています。FX市場に携わって約20年経ちますが、現在は他の金融市場(株式、コモディティ、暗号通貨)の関連性を含めて独自目線で情報提供しています。
主な資格:
米国公認会計士合格(ワシントン州)
お仕事依頼などの連絡先:
問い合わせフォームをご利用ください。

無料メールマガジン

無料メールマガジン購読

* 記入事項



/

( mm / dd )
Email Format


FX口座・ツールランキング
株式会社DMM.com証券
最少額証拠金で取引可能だから初心者でも安心!
外為オンライン
外国為替証拠金取引の外為オンライン
他業者の10分の1の取引単位で初心者の方が安心して始めやすく、同時に今キャッシュバックキャンペーン中は嬉しいです!
「トライオートFX」インヴァスト証券株式会社
トライオート
FXTFMT4
らくらくFX
FXTFはMT4を取り扱っている数少ない国内業者です。 自動取引手数料が0円という最も注目のMT4業者です!
GMOコイン
LIGHTFX
トレイダーズ証券【LIGHT FX】
FXレート

マーケット最新情報
FX NEWS
チャート